2008.12

2008_12

「プレス機の神様」

11月末に千葉から東京へ大急ぎで引越しをしたことで、今まで通っていた千葉の銅版画の工房が片道2時間の距離になってしまった。引越しの翌々週、御茶ノ水で中央線を降りて総武線各駅停車の電車を待ちながら、寒さにガタガタ震えながら思った『本当に遠い!』。 残念なことに銅版画はどうしたって「プレス機」と「腐食室」がなければ作業ができない。しかもすぐにその両方を家の中に用意することなんて不可能なわけで…。もしも銅版画を制作する環境が整わなければ、木版にチャレンジしてみるか、キャンバスを張ってまた油画でもいいかな?と思いかけていたところへ、プレス機の神様が舞い降りた! もちろんそんなヘンテコな神様はいないけれど、なんと近くに銅版画の工房が見つかった。来月に見学させてもらい、それから使用させてもらえるか決まるのだけれど、まさかこんなところ(田舎)に設備の整った工房があるとは。そこでふと、あるキャリアの長い版画作家さんとの雑談を思い出した。願っていれば『プレス機は後からついてくる』とのこと。使わなくなり、持て余していたプレス機を偶然譲ってもらったなど、絶妙のタイミングでプレス機とめぐり合う版画作家さんは少なくないらしい。自分も人から伝え聞いて探し当てた工房だっただけに、運が良かったなあと思ってしまう。自分に関係のあるものを『気にかけたり』『願う』ということは、何かを引き寄せるものかもしれない。

2008.11

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「アクアパッツァ (acqua pazza)」

時代遅れのようだけれど、たまには分厚い辞書を開いてみるのもいい。数年ぶりに引っ張り出してきたイタリア語の辞書からは、サラサラと大量のイチョウや紅葉の押し花がこぼれ落ちてきて、残念ながらこの辞書は過去に語学の為に使われていなかったことを思い出させてくれる。 さてさて、「アクアパッツァ」というイタリアの料理があります。acquaは「水」、pazza(pazzo)は「狂気の」とか「逆上した」とか「変な」という意味があるようです。この料理を教えてくれた方は熱したフライパンの中の魚に水を足すときに、水がとても激しくはねることから「びっくりする水」からきているのではないか?と話してくれました。本当かどうかわからないけれど、料理してみるとそれが正しいように思えてくるのが面白い。 魚をフライパンの上でオリーブオイルとニンニクでこんがり焼き色をつけて、そこに水を足しさらにアンチョビやら貝やらオリーブ、ケッパー、トマト、ハーブなどを放り込む。あとは蓋をして煮るだけで、信じられないような美味しい料理に変身してしまう。シンプルな料理とはまさにこんなことをいうのだろう。あとはパンとワインがあれば完璧だ。人の人生もこんな風に足し算でどんどん旨みのでる一生が送れればどんなに幸せだろうか?そんなことをふと思ってしまう。でも実際の生活は「変なこと」や「びっくり」させられることの連続で複雑にからまりあっている。しかもそれは年を重ねるごとにさらに複雑怪奇になるという噂で…。ならばせめて少しでも身軽にシンプルに生きられるように、自分自身と大切な人々には大きな嘘はつかないように、誠実でありたいと願う。

2008.10

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「くちばし」

心配性の小鳥が一羽、頭のどこかに住みついている。この小鳥、心配性なだけでもホトホト迷惑しているのに、優柔不断でさらに懐古主義でもあるらしい。
何年も悩みぬいた末にようやく出した結論でも、ついさっき突然決心したことであっても、小鳥は同じようにグーグー喉を鳴らしてはっきりしない。もしくは何も聞こえなかったかのように気持ち良さそうにさえずっていたりする。そして過去の決断についてさえ、その選択でよかったのかしら?なんて絶妙なタイミングで首を傾げて目を瞑ってみせたりする。この小鳥がどこか遠くへ飛んでいってくれれば私の人生もさぞ「軽く」なるだろうに。

ホオズキの中にかくまわれている小さな丸い実が食べられると聞いて驚いた。干からびた梅干のお菓子のように萎んだ姿で、噛むと甘味があるとか。8月からキッチンに置きっぱなしのホオズキは、今でもムクドリの嘴のような紅い色をしている。それではということで、さっそく我が家のホオズキを解体してみることにした。外皮の太い葉脈にそって鋏を入れていると、左手がヌルついて憂鬱な気分になってくる。よく考えてみれば豆電球のように丸々と太っていた実が、ほんの二ヶ月で乾物ほど劇的に縮んでいる筈がないではないか。やがて解体され、とり出された実は表面にだけ細かくシワを寄せ、まるで出来損ないの小鳥の脳のようだ。軽くなった嘴は風に吹かれてカサカサと笑った。

2008.09

2008_9

「予感をあたためる」

頭上に重苦しい雲がたれこめて、いつも何かに押さえつけられているような気分が続くことがある。まるで文章の途中で突然句読点の「。」をおかれてしまったような居心地の悪さ。エスキース帳を開いて思いつくものをいくら描いても、どれもコレだという気がしない。実際にはそんな「予感」がしないだけだということをわかっているが、かといって強引に取り掛かろうとすると熱がすっとキッチンの方に逃げていってしまうのだ。
私の場合「予感」は本棚に挟まっていることがある。最近はエスキース帳に挟まっていることの方が多いが、うっかりしていると3年前のスケッチブックの間から微かに「チン!」と聞こえてきたりする。すると急に冷たい風が吹いてきたり、何かが落ちてきたり、在ったことが無かったことになったり、存在しなかったものが生まれたり…。だから慌てないでただ頭上の雲が動くのを待っていることにする。