2009.12

2009_12

「空を映す」

1日は24時間、1年は365日。 時は誰にでも平等に流れている。でも本当にそうなのか?
生まれたばかりの命の1年と、去り行く命を見つめる1年の長さはまるで違う。人はそれぞれ立つ人生のステージにより、1日も1年も長くなったり短くなったりする。この1日24時間、1年365日というのは、人の物差しというよりは春夏秋冬、地球の物差しに人が合わせて基準にしているだけのこと。もし自分の人生の残りの目盛りが読めたらどうなるだろうかと思う。そうすれば生き方は今よりもっとシンプルになるのだろうか?
人は厄介な出来事に遭遇すると、それを乗り越えて先に進むのに時間がかかる。果たして出来事が人を変えるのか、人が出来事を変えるのか? 今年は電車をいくつも乗り継いで遠くまで行き、最後にまたはじめの駅に戻って来たような1年だった。表面的なものは何も変わらないが、夢中で移動しているうちに中身がすっかり入れ変わってしまった。たぶんどこかで自分が一度蒸発して、器が空っぽになったのだと思う。大きな海に小さな舟で漕ぎ出でて、器を空の色で満たしたい。

2009.11

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「予感をあたためる」

アメリカの作家P・オースターの書いた『鍵のかかった部屋』(The LOCKED ROOM)という小説がある。自分は20代の頃に手にとったが、今でもオースターの作品の中ではこれが一番好きだ。過去の思い出に執着する記憶フェチの自分としては、タイトルだけでご飯が軽く三杯いける(笑)。これを読むと今でも小説家になりたいと思ってしまうくらいだ。
さて、人が強烈に記憶に執着し始めるきっかけとは何だろうか?恐らく身近な人物を失ったときではないかと思う。自分の場合は小学3年生のクリスマスイブ、病床の母が亡くなる。あっという間に自分が世界から弾き飛ばされたことに気づく。とにかくすべてが嘘っぽい、12月のその時期ならなおさら。まるで自分の人生が作り話のようで、演出過剰な舞台が間違ったシナリオのまま進んでいくようだ。やがて傷みが去ると次に忘却の嵐が襲ってくる。自分の意思とは関係なく次々と忘却してしまう、子どもという過程。心と体が逆方向に全速力で走っているような矛盾した時間。そのせいか他の人より少し早く、鍵のついた秘密の部屋を持つようになる。頭の中に。
オースターの物語と自分の物語はまったくの別ものだが、あるひとりの人間の人生を、ひとつの枠の中に押し込めることなど不可能だという部分は共通している。もし人生というものを輪切りにしたならば、その断面はどれも一貫性がなく、すべて別の顔をしているということ。少なくともその人物が死ぬまでは、それがどんな人間であったか知ることはできない。
自分の気持ちを誰も理解できないと感じることは当然のことで、たとえ同じ状況で同じ出来事が起きたとしても、物事の受け取り方は人によって異なる。感情の揺らめきは床に落ちるレースのカーテンの影のように曖昧で、輪郭は光と影の間で溶けてしまっている。まったく意味のないことのようだが、なぜか目が離せないこと。感情に振り回されてどうしようもない時は、諦めてカーテンが風に揺れる様子をじっと見ている。そして気が済んだら、最後には必ず鍵のかかった部屋から出てくること。

2009.10

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「錨をおろす」

これは自分が大学に入った年に描いた父のクロッキー。 「寝そべってテレビを見る」の図である。このときは半年ぶりに実家に帰り、描きながら父も老けたなと初めて思ったものである。今はこれよりも更に水分を失い、なぜか丘に立つ1本の古木を思わせる。そんな父が、数年前にこんなことを言った。
「お父さんはここに錨をおろしたから」と。父という船はもうこの港を動きません。残りの人生は母の思い出の残るこの港で過ごします。 自分は父子家庭で育ったから、母親も兼任してきた父がただ老いてゆくだけで気にかかる。出来ることならば、これ以上酸化しないよう薄い紙に包んで、マップケースの中にそっとしまっておきたい。
現実にはもうそこで一緒に住むことは出来ないので、月に何度か足を運び、船が錆びないように見回りをする。そのように月に3、4回、片道2時間かけて通ってもうすぐ1年。まったく苦ではない。むしろ錨をおろした船があることにホッとする。
ところで自分はいったいどんな港に行き着くのか?まるで見当がつかない。途中で転覆しなければいいけれど。。

2009.09

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「種まき」

飼っているウサギのために、牧草を種から育てようと思う。 使っていない植木鉢を18鉢、たわしで水洗いし玄関先にひっくり返してある。 自分がまだ子どもの頃、父は畑を借りて家庭菜園をやっていた。よく一緒について行って土いじりをした思い出もあり、家庭菜園に興味がないわけではない。でも自分がやれば、収穫した野菜も全てウサギの口に入ることになるだろう。ならば最初から栽培の簡単な牧草だけで結構。牧草の種は3種類。6鉢ずつ3種類の牧草を、一週間ごとに時期をずらして蒔こうと思う。そうすれば冬までの間、少しでも長くウサギが喜んで牧草を食べる姿を見ていることが出来る。それこそ本望というもの。
人と植物は違うが、同じ種だと思っていても環境が変わることで、物事の感じ方に微妙にズレが生じるらしい。仕方のないことだが、親しい相手であればあるだけ譲れない気持ちもある。 今まで自分の生まれ育ったところがずっと本当の「家」だと思っていた。しかし、もしかしたら自分が一番居たいと思うところが、いつか本当の自分の「家」になるのかもしれない。
次に晴れたら牧草の種を蒔き始めることにする。 このところ憂鬱の種が多すぎて、育った牧草が余計なことを歌い出さないか心配だ。さらにそれを食べたウサギまで、憂鬱を歌い出したら目も当てられない。王様の耳は…。

2009.08

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「鏡」

つい数日前に図書館でルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』を借りてきた。『不思議の国のアリス』は子どもの頃に読んだ気がするのだが、『鏡の国のアリス』は読んだ覚えがない。つまりストーリーをまったく知らない。先日行った展覧会で『鏡の国のアリス』をモチーフにしたものがあったので、どんな話か気になっていたのだ。まだ数十ページしか読んでいないのだが、前作でアリスをもうひとつの世界に導いたのが白兎ならば、今回鏡の世界に誘うのは黒猫のようだ。そういえば『オズの魔法使い』で主人公ドロシーが竜巻に連れ去られるのも、子犬が原因ではなかったかな。どうやら文学の世界では可愛い少女を異世界に連れてゆくのに、小動物の役割が欠かせないらしい。
鏡というのはただその前に立つものを映すだけではなく、あちらとこちらの世界を切り換えるスイッチのようなものではないだろうか。現実と空想、善と悪のように。時に鏡は外見以上に人の内面を透かして映すことがある。同じ自分なのに見るタイミングによって何故か別人のように思えることがないだろうか?他人が気づかなくても自分ではわかる、あの奇妙な違和感は何なのだろう。その場の気分が表情に出るだけかもしれないが、人間の二面性を考えてしまう。鏡の中の自分と向き合って立ち止まるのか、それとももうひとつ別の世界と取り替えてしまうのか…。小説の世界とは違い、現実に一度世界を取り違えてしまうと戻ってくるのは難しい。

2009.07

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「80's」

レコードがまだ全盛期だった80年代、本棚には父のクラシックのレコードが分厚く差し込まれていた。その後レコードに代わってCDが現れ、今ではPCや携帯電話からワンクリックで一曲から音楽を買うことが出来る。ほんの20数年という短い期間でこの変化はすごいと思う。 先月マイケル・ジャクソンが急死して、懐かしさから思わず彼のCDを購入してしまった。当時「THRILLER」はカセットテープで聴き、「BAD」は我が家に来た初めての洋楽のレコードだった。 今はそのCDをデータにおとしてPCで聴いているのだけれど、曲目の半分くらい聴いたところで「B面になったな」という無意識の感覚が自分の中に残っているのに驚いた。カセットテープが「ガチャリ」と裏に切り替わり、レコード盤をクルリとひっくり返している「感じ」が聞こえるようなのである。
当時我が家ではレコードは傷一つ付けないよう、大切に扱われていた。静電気防止のスプレーを吹き、初めと終わりには丁寧にホコリを拭っていた。まるで宝ものでも扱うように。30cm四方のレコードジャケットは、まだ見たこともない外国の美しい写真やイラストで飾られ、子どもだった自分には贅沢なアートだったと思う。霧がかったノイシュヴァンシュタイン城、広大なドナウ川にフィヨルド、ペールギュントの謎めいた情景イラスト、暗闇に浮かび上がる凛々しい白髪のカラヤン。ギターケースを振り回すマリア(ジュリー・アンドリュース)とトラップ家族も楽しげで好きだった。
時代の流れと言われれば仕方がないが、モノが溢れんばかりに豊かになったぶん、なにか手触りのようなものをどんどん失っているような気がする。消費するスピードが速すぎて、実感としての豊かさの手触りが感じにくくなっているのかもしれない。

2009.06

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「お遣い」

最近知ったことだけれど、自宅から車で数分のところに卵屋がある。でも一見したところ、木に囲まれた普通の民家のよう。 通りから少し敷地に入ったところに車を止め、持参した籐の籠を持って車を降りる。右手には生みたての卵を並べた、古い無人の自販機が置いてあり、どことなく田舎のひと気の無い通りに置かれた、如何わしい自販機のような趣がある。その横を通りぬけ、他人の家の庭先を横切るような心地悪さで奥に進む。すると左手に小さな小屋があり、もっと奥にはにぎやかな鶏舎の気配が感じらる。でも首を伸ばしてみても鶏はまるで見えない。ただザワザワとした気配だけが感じられる。小屋の向かいの木陰には名前のわからない大きな犬がいて、太い腕に顎をのせたまま目だけをこちらにグルリと向けた。
鏡鶏舎のすぐそばで、産み落ちたばかりの卵を買うのは初めての経験。遠慮がちに小屋のなかで仕分けしているおばさんに声をかけ、誰の使いで買いに来たかを告げた。するとおばさんは籐の籠にいっぱいの卵と、ずっしりとしたビニール袋をくれた。袋に入っていたのは、小さすぎたり、傷がついたり、表面が少しザラついているだけで商品から外されてしまった卵たち。商品として難はあっても、中身は変わらず新鮮で美味しい卵なのに。 受け取ると両手で左右の卵の重みを確かめながら、ゆっくりと車に向かって歩いてゆく。まずは籐の籠を助手席に置き、もう一方の袋の中を恐る恐るのぞいてみる。規格から外れてしまい、ボンヤリ転がっている自分のような卵を。。

2009.05

2009_5

「記憶の装置」

気分を変えて久しぶりに部屋の模様替えをしようと片付けを始めたところ、引っ越し以来一度も開けていなかったダンボール箱から懐かしいものが出てきた。見つけたときは砂浜に転がるガラスの欠片ように白い靄に覆われていたけれど、中身はちゃんとわかっていた。大学の授業で作った透明樹脂の作品。さっそく研磨剤をウエスにつけて磨き上げると、やや黄色がかった恭しい姿で現れた。樹脂に埋まっているはロンドンのWestminster Abbeyの入場チケットだと思う。なんと、もう12年も前のこと。 これは私にとっての「記憶の装置」。琥珀に閉じ込められた古代の蚊と同じ。
考えてみればこの教会も「記憶の装置」のひとつではないだろうか。英国の歴史上の人物たちのお墓でひしめいている。しかし彼らもお墓に入ってしまえば、長い物差しのひと目盛りにすぎない。死後にいくつかのエピソードが残り、後生の人々が「こんなことをした人だった」と伝え知る。 でも本当にそうだったのだろうか? 過去は万華鏡のごとく移ろい、どれが真実の姿なのか誰もわからない。私の装置も屈折した柔らかな光のせいで、12年前よりも確実に美しい。とても意味のある物のようでいて、実はただの小さな墓石かもしれない。さらに私はロンドンに行っておらず、拾った紙切れをただ樹脂に埋め込んだだけかもしれない。

2009.04

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「綿毛」

今月は初夏のような陽気になったかと思えば、冬の終わりごろの気温に逆戻りしたりと忙しい空模様だった。半袖で庭の草むしりをしたかと思えば、翌日はカーディガンを羽織ってキッチンの窓を細く閉めている。できることならば雲ひとつない青空で、風は素肌に陶器を抱くような冷たさがいい。 春の野菜を食べる兎の毛は若葉の香りと、仄かに温められた甘い土の匂いがする。柔らかくて暖かい兎の背に鼻を押しつけたまま、心静かに眠ることが出来たなら…。 春はタンポポの綿毛を散らすように容赦なく夢から醒める。
絵を描くことと文章を書くことは、方法が違うというだけでよく似ている。文章や小説はあたかも部屋に散らばったガラクタを、仕切りのついた小さな箱に熱心に整理するようだ。絵はその逆で、どこにも分類できなかったガラクタを、小さな箱から取り出して外に広げるのに似ている。どちらも作業している本人が一番楽しい。 ただ、身のまわりの出来事に近づきすぎ、現実に巻き込まれてしまうと作業が手につかなくなる。それどころか制作する気さえなくなってしまう。だからそんなときは仕方がないので、心が荒れるままに思う存分暴れさせておく。そして風にのった綿毛が静かに舞い落ちるように、心が一箇所に落ち着くのをそっと待つ。

2009.03

2009_3

「スプリングスター」

早春に咲くこの可憐な花、和名は「花韮(ハナニラ)」というそうだ。道端や木陰の草むらに「オオイヌノフグリ」などと、直径2cmほどの小さな薄紫色の花を咲かせている。聞くところによると、葉の匂いが食べる「ニラ」に似ていることから「花韮」というらしいのだが、英名の「スプリングスターフラワー」の方が響きが爽やかだ。「春の星」にふさわしく、明るい春の訪れを知らせてくれる小さな星。 初めてこの花を見て「花韮」という名を聞いたときの違和感に、つい立ち戻ってしまう。「花韮」という呼び名は「嗅覚」の印象からきているし、「スプリングスターフラワー」は「視覚」の印象から名づけられている。「スプリングスターフラワー」は洗練された都会的なイメージだが、「花韮」はどこか田舎の畦道が目に浮かぶようで、しかも「ニラ」の印象が強すぎてまるで野菜のようだ。実物を見なければ如何に清楚で愛らしい花かわからないのではないだろうか。
別に「花韮」という名前にケチをつけているわけではなく、この二つの名前の「イメージのギャップ」が面白いと思った。葉がニラ臭いのも、見た目が星のようなのも、どちらもこの花の特徴を的確に表している。ただ注目する部分によってそのモノの印象(イメージ)が全然違ってしまうということ。勿論これは花だけに当てはまることではなく、人物の印象や作品の印象も、注目する角度によっては全く違う印象を受けることになる。 ギャラリーを巡っていて楽しいのは、作品(イメージ)と同時にその作り手にも会えて、共感できそうなところがあれば初対面でも話しかけることも出来るというところ。作品と本人がまるで同じ色彩でいることもあれば、普段気がつかないような側面を覗かせてくれたりもする。ただ、この「印象(イメージ)」というのは本人の意思に関わらず、いつの間にか自然に出来上がってしまう。そこが面白くもあり、場合によっては怖いところでもあると思う。

2009.02

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「UNDERCURRENT」

待ち合わせの時間調整にぶらりと立ち寄ったCDショップで目にとまった写真(CDジャケット)。女性が顔だけを水面に出して漂っている。水面に映りこんだ女性のドレスがゆらゆらしている感じといい、ふわりと身を浮かせつつ優雅にからだを横たえた姿といいなんとも静かである。それでいて足の先はしっかりと水を蹴っているようで、生命力すら感じてしまう。自分が銅版画を制作しているからといって、モノクロの作品を贔屓目に見たりはしないが、この美しさはカラーではありえない気がする。 アルバムタイトルの「undercurrent」とは「底流」とか「暗示」といった意味らしい。「暗示」という言葉に引っかかると見方によってはこの女性、ハムレットに出てくる悲劇のヒロイン、オフィリアかとも見える。でもたぶんそれは直接関係はなく、そんな風にも受け取れるとイメージの奥深さを示唆しているだけなのだと思う。
世の中の出来事はどれも物事のほんの表面であって、本質はずっと底の方に流れている。出来事は目に映るただの動きや変化であって、そのもの自体ではない。 ひとりの人間でいえば言動や態度ではなく、言葉にならないような感情や記憶、過去。これらは見ることも触ることも出来ないが、心の奥底に常に流れていているものであり、満たされ漂っているもの。それらを敏感に汲み取るのがアートであり、音楽、文学であるわけである。しかし残念なことにその性質上、いつの時代もこの分野のことは物質(お金)になりにくいのだなと、つい思ってしまう今日この頃である。

2009.01

2009_1

「明暗は表裏の如く…」

夜中に犬の遠吠えを聞いたような気がして目が覚めた。 耳を澄ませてよく聞けば、吠えているのは自分の心じゃないか? しかし無駄吠えする悲しい犬みたいに、なぜ吠えているのか理由がわからない。でもきっと不安なんだろう、犬と同じで。
制作活動に限らず、人生において何か一つのことを続けたり、貫くということはなかなか骨が折れる。仕事、家族、主義、主張、愛情においてまでも。ただ私の場合、制作活動に関しては他に比べて寛容でありたいと思う。先が長いのだから焦らずマイペースでいい。ただ折れないように。 アートは絶妙なバランスで「生活」に寄り添っている。作り出したものがたとえ個人的なものであったとしても、そこには必ず他者との関わりがあるように思える。だから自分が良い作品を作るためには、人を大切にしないといけないのではないかと思い、努力する。
制作をずっと続けられることは素晴らしいことだが、実は制作しない期間もかなり重要なのではないかと経験から思う。制作から距離をおくと、本当に自分が渇望していたことが何かわかってくる。ほとんど憧れに近いくらいに。そうすると次に制作できる環境が整ったときに自分がブレなくなる。私の場合は一度社会に出て冷静に外側からアートをみることができてよかった。世間は全然甘くない。 心が勝手に遠吠えしてしまったのは、いつまたこの恵まれた制作環境が途切れるだろうかという杞憂なのだろう。 夏目漱石の『草枕』はどこに置いたっけ。 しっとりと冷えた絨毯に膝を落とし、本棚の暗闇に夜の匂いを嗅ぐ。