2011.12

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「解ける」

良いことも、悪いことも、今年起こったあらゆることが夢の中の出来事のようで、歩きながら小説でも書いているようだと何度も思った。今書いているのは誰の人生? ある朝突然に、まったく別のストーリーの中で目覚めてもおかしくないような気がした。
自分にとってはこの12ヶ月をかけてようやく「ほどけた」という感じがする。 誰も悪くはなかったが、きっと正しくもなく、沢山の間違いを否定する気もなく、失敗を含めてすべてが大切な経験だったのだと思う。硬い玉のように結ばれていたロープも、今となってみれば風変わりなレースの一端でしかなく、アンティークのレースのように次々と巻きとられてゆく。それらが更に美しいマチエールに成長するまで、小さな箱に詰めて机の引き出しの奥に仕舞っておくことにする。
今年出合ったすべての方に、いつも遠くから見守ってくださる方に、心より感謝いたします。

2011.11

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「見えるもの、見えないもの」

今回の個展を終えて、衝撃を受けたことがある。 今まで自分でよ~く理解していたと思っていたことが、実感としてまったく足りなかったことに気づかされた。正確には個展が終わってからの出来事なのだが…。
その衝撃とは、作品を購入するということについて。 実は今月、自分で初めて他人の版画作品を手に入れた。これまでもすごく良いなと思う作品には何度も出会っていたが、購入したのは初めてだった。小作品で値段も自分には無理のない手ごろなものだっだのだが、どこに飾ろうかと考えながら歩いているうちに、不意に今まで見えなかったものが見えたような気がして立ちすくんでしまった。ビル風に吹かれて頭の中が一瞬で真っ白になったような気がした。
夏の個展が終わったときには、ひとつの円が閉じたような感覚があったが、今回の個展が終わった後の余韻は全体的に今までとはまったく違うように感じている。何かが終わった気がしない。 自分で作品を作り、わざわざ人目に触れるようなところに展示しておいて矛盾しているのだが、自分にはいつも自信がない。そして心のどこかでスミマセンと思っていた。何よりも、なぜ作品を購入してくださるのか、本当のところはわかっていなかった。もちろん購入の理由は様々にあるのだろうけれど、自分が思っていたよりもずっと大きなことだということを、恥ずかしながら今回ようやく気がついた。 今はこの先やらなければならないことへの覚悟と、物凄く幸せなことをさせてもらっているのだなということを噛み締めている。

2011.10

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「秋」

10月になると秋を封切るように始まる、金木犀のリレー。
その姿が見えないのに、どこからともなく匂ってくるのが良い。
早朝、長い坂の上から自転車で一気に駆け降りてくるのが心地良い。
シャツ一枚で、胸に陶器を押し付けたような冷たさが。
首の後ろを撫でる香ばしい風が。
道すがらイチョウの雄雌を探しながら、葉を拾い歩くのが良い。
ギンナンはもう少し先。
オーブンのなかで、何かが焼けるのを待つ時間が良い。
待つといえばあの人を待つのも、
まだ会ったことのない誰かを待つのも良い。

2011.09

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「夜が長くなってきた」

秋なのか?秋が近いからなのか? 日が落ちると少し肌寒くなってきた。 家に帰るとひとまず腰を下ろし、熱いコーヒーが飲みたいなと思う日が増える。 台所で湯を沸かしながら、ぼんやりと物思いにふける時間が好きだ。
美しいもの、醜いもの、正しいこと、間違いだと思うこと。 もっともらしい基準はいくらでもあるけれど。 人を、その人らしくかたち作るのは、シンプルに、ただの「気持ち」ひとつではないかと思う。良いも悪いもない。人との関わり合いでは難しいことの方が多いけれど、素材の手触りでなしでは作れないものがあるように、ざらざらとした言葉をいくつも手探りして、ようやく認め合うことも出来るのでは。
他者と対話したいと思うのは、きっと相手を理解したいと思うがため。理解して欲しいと願うため。 だから早々に諦めて、そのドアから出て行かないで、もうしばらくここに座っていて欲しいと思う。 そして自分には忍耐力を、時が来るまで焦らず待つことを。
まずは温かい飲み物を用意して。

2011.08

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「軽やかさ」

夏の終わりが近づいて、ようやく自分の体温が戻ってきたように思える。何かが起きて世界が変ったのではなく、タイマーがチンといって目盛りが「0」になったみたいに。ふわっとしているような、点のようにじっとしているような、真っ白のような透明のような。
相変わらず隣の芝生はどこも真っ青に輝いて見えるけれど、焦ったところで仕方がない。 しばらくはこのままふわっと、水槽の外のことは気にせずに、好きなように漂っていたい。。

2011.07

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「扉」

環境が変わっても迷子にならないようにと、去年のうちから今年のカレンダーに印を付けておいたのがよかった。このところ、どうも暦のめくれるスピードについてゆけない。もし日付に印がなかったなら、きっと自分は何処へも行けないように思う。ただ立ちすくんでいるだけだったかもしれない。
今月はまるでご褒美のような手紙や葉書、メール。心ある言葉を頂きました。優しい灯りに照らされて、思いがけず、持ち物を見つけてもらったような有難さ。あたたかいエールに、微妙なラバンスを保つ何かが救われる。いつもながら、何が最善なのかはわからない。だけれど、とにかくやってみないとわからない。後悔もできない。
ひとつの扉にたどり着いても、またその先にも扉が並んでいて、一体いくつの扉を叩けばよいのか?開かない扉はどうしたらよいのか?夏への扉はどこに?それでもやはり、探さずにはいられない。

2011.06

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「視線の先」

今年の夏の訪れは例年より早いように感じる。個展期間中はまだ6月だったというのに、連日30℃超えの猛暑だった。そんな中、ギャラリーまで足を運んでくださった皆様に、心より感謝いたします。
個展期間中、丸一週間自分の作品に囲まれて過ごして感じたことは、自分はまだ大丈夫かもしれないということ。このまま続けても良さそうかなということ。
今回は制作期間が普段より短かったこともあり、かなり焦りながら、バタバタしながらの作業だった。もしかしたらそんな混沌とした様子も作品に出てしまっているのかなと、不安もあった。しかし完成して壁に並べられた作品たちは穏やかで、柔らかい表情をしていたようだ。愚図愚図思い悩んでばかりいる作者から離れて、作品たちもホッとしたのかもしれない。(笑)そんな風に平らな目で自分の作品を眺められたのは初めてだったので、自分では少し嬉しかった。もちろん、たくさんの方々の目にさらされて、ご意見やご感想を直接いただけたから、そんな風に見れたのだと思う。
また自分も含めて、人は見たいものしか見ないものなので、同じ作品を見ても人によって違う印象を受けることもあると思う。作品の解釈に、正解も不正解もない。制作した作家のイメージだけを作品から受けているようでいて、実は鑑賞している人自身から引き出されたもの見ているのだと思う。箱の外側を見ているようで、内をみている。それがアートの面白いところだと思う。

2011.05

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「Butterfly effect」

6月の個展のサブタイトルに「Butterfly effect」とつけてみた。自分のここ数年から数ヶ月を思うと、自然とそんなフレーズが浮かんできてしまった。日本風にいえば「風が吹けば桶屋が儲かる」に近いだろうか。つまり、その時(過去)には気にもかけないような小さな事象が積み重なり、やがて思いもかけないかたちで現在(もしくは未来)に大きな影響を与えてしまうことの比喩である。普段なにげなく生活する自分の選択や行動のなかに、将来どんな影響を及ぼすことがあるのか?
自分の中では今でも様々な「なぜ」と「どうして」で溢れかえっている。これは理性で物事の原因を理解しようというのとは違い、感情的に心が理解を拒絶している反応のようである。だから繰り返し同じところを行ったり来たりしている。残念ながらこれらの問いには答えがなく、そもそも意味がない。蝶の羽ばたきは小さすぎるし、しかもずっと昔に羽ばたいてしまっているのだから…。それはまるで消印不明のメッセージが、それぞれ別の場所からまとめて届けられたようなものだ。
たとえ、受け取ったメッセージが破滅的なものだったとしても、自分は過去をいっさい否定したくない。そして低気圧が運んでくる「どうせ」などというつまらない言葉に囚われて、自分の可能性を潰したくない。そして何か(誰か)を「信じる」という気持ちも失いたくないと思う。

2011.04

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「黒鍵」

ショパンのエチュード(練習曲)のなかに、「黒鍵」という曲目がある。
タイトルどおり、右手が黒鍵の上ばかりを走り回る軽快な曲。かつて自宅で兄がよくそれを練習していた。冒頭からかなりのハイテンションで走り出すので、一度指がもつれると階段がボロボロと崩れてゆくような、軽やかな崩壊の音になる。聴いている側としては、煉瓦が一つ二つ崩れようとも、そのままの勢いで爽快に走り抜けて欲しいものだが、奏者としては煉瓦一つとて納得しない。まるで落し物でも拾うかのように指先にブレーキをかけ、何度も同じフレーズに立ち戻る。 今月ついにそのピアノが我が家から去ることになり、ふとそんな情景を思い出した。
このところ、指先が鍵盤の上をもつれながら疾走ような、慌しい日々を送っている。 あえて忙しい状況に自分を追い込んで、余計なことを考える暇を与えまいという魂胆である。直近の目標に向って走りこんでいれば、すぐ後ろにお化けがいたとしても逃げ切れるかもしれないと。先に次の扉のドアノブに手が届けば、後ろ手にパタンと閉めてしまえばいいと思っている。ところが可笑しなことに、ある程度その慌しさに慣れてくると、そのスピード故に何か大事なものを取りこぼしているのではないかという、また別の不安を抱えてしまう。もしかして、どこかで重大なミスタッチをしたのではないか?とつい後ろを振り返る。一度振り返ると不安が増し、更に何度も何度も振り返りたくなる。しかしあまり執拗に振り返ると、当然ながら動きが止まる。
ピアノの演奏と違い、過去の気になるフレーズをもう一度弾き直すというのは簡単ではない。 弾き直すのが良いのか、悪いのかもわからない。そう、考えれば考えるほどわけがわからなくなる。 なので、とりあえず今は多少指がもつれても、夏までは崩壊せずに一曲完奏しなければと思う。

2011.03

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「現実ということ」

今月起きた出来事はあまりにも大きすぎて、そして継続中のことであり、何をどう記せばよいのかわからない。なのでいつもと同じように、自分に起きたことについての個人的な記録を書くことにする。
震災が起きる以前、今年に入りしばらくしてからというもの、自分はずっと無重力の世界にいた。 意思とは別のところへ体は飛び、宙を舞い、天井と壁と床に頭と尻をぶつけた。意思を通そうとすればするほどうまくいかず、結果はいつも裏目に出た。やがて面前には自分への嫌悪と後悔と逡巡とがぶら下がり、吐き気をもよおした。そして電車に乗ると何故か泣きたくなった。 そこへ今回の東北地方の大地震と津波の大災害。きっと自分は壊れると思った。 被災された方々に、今自分はいったい何をしてあげられるのか?ただ祈る以外に現実的なことを。そして自分がやってきたような制作活動は、誰かの助けに、自分以外の人のためになるのだろうか?
無機質なテレビ画面から伝わる悲しみはあまりにも強すぎて、ほとんど毎日否定的な考えばかりが頭に浮かんだ。そして酷い偏頭痛とともに、果てのない自己否定が底をついてきた頃、どこかに隠れていたタフな自分の一部が現れた。そしてまず、自分を「許す」ことに決めた。
自分の欠点や短所、俗物的などうしようもない部分を、ひとまず諦めることにした。開き直ったのではなく、現実に前に進むために今は諦める。にわかに修正の仕様のない自己の欠点だけを凝視し続けられるほど、自分は強くない。自分のなかの暗闇に怯えることをやめた。まずは自分の出来ること、いくぶん得意と思われることを、たとえ無神経な俗物でも俗物なりにやるしかない。たぶんそう思うしかなかった。 すると重力が戻り、四月の扉が音もなく開いた。

2011.02

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「春一番吹く」

来月の展示に使うフォトフレームと、汚れたCONVERSEのスニーカーと、無くて意外と困ったベルトと数冊の本を、以前住んでいたところへ取りに行った。 思いがけないことに、家の前の梅が今まさに満開。しかも「おかえりなさい」と言っているようで、手ぶらの自分に「カメラはどうしたんだ?」と花で重くなった枝をさらに伸ばして詰め寄ってくる。そう言われて見れば、この梅はずっと昔から自分のもののような気がしてくる。梅林への愛着と郷愁。 しかし、記憶は偽造と隠蔽の常習犯であることを忘れてはいけない。しっかりしなければ。
最近読んだ小説の一節に「人生って、誰かひとりを愛するよりもずっと大きいのだと思う」という台詞があった。自分もその意見に共感せずにいられない。愛を軽視しているわけではない。ただ人生において、愛という幻想に縛られて苦しみ続けるよりも、世の中には賭けてみる価値のあるものがたくさんあるのだと思う。自分はこちら側に出てきたのだから、それはもうやってみるしかない。自分に賭けてみるということ。とはいえ、心のスイッチをOFFにして、もっと楽に生きようと思えば出来なくもない。しかし、それではまた自分が空っぽになってしまう気がする。
自分の考えるアートともリンクしてしまうのだが、勝算があるからやる、確信があるからやる、というのとは少し違う。勝ち負けは意味を成さない。誤解を恐れず言ってしまえば、わけはわからないが、そんな気がするからそうしてみる。そうやって、何度か想像もつかない程のどつぼにはまることもあるかもしれない。でもいつか、自分でも想像できなかった場所や表現にたどり着きたい。
今は何をしようとしても、足がすくむばかりだが…。

2011.01

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「想定外の半歩先へ」

周囲の心配をよそに、うさぎを抱えて飛行機から飛び降りて、早一ヵ月。
しばらくはぼんやりと空ばかり眺めていたけれど、気がつけばまた新しいルールでのゲームが始まっていたらしく、まるで日付に追われるように慣れない日々が過ぎてゆく。人生は自分から投げ出さない限りは飽きるということがないらしく、ご親切にも常に新しい課題を用意してくれる。
自分は純粋にアート作品を作るときに、先に明確なコンセプトを置かない。思った通りのものを、その通りに作るのは確かに気持ちが良いことだけれど、それは何か「確認作業」に近い。自分にとっての未知の領域に行きたければ、先に描きたいという欲求が、少なくとも理屈の半歩先になければいけないと思う。理由をつけたり、説明するのは時間をかければどうにでもなるもので、むしろ出てきたものの謎を自己分析するのは、一番面白い作業だ。逆に怖いのは制作に関して情熱がなくなること。作業に慣れてしまうこと。勿論、あまりに気持ちが先行しすぎて、迷子になることもある。
また、人を傷つけない限りは、既存のルールを無視してもよいと思っているけれど、自分でも制御できないところで空回りを続ける事柄には、いくら磁石がむこうを指していても、再考の余地ありなのかもしれない。